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あおはるだん

関口いろは

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関口いろは(せきぐち いろは、生没年不詳)は、幕末に活動したとされる紀州藩出身の人物。紀州藩主・徳川慶福に仕え、慶福が第十四代将軍・徳川家茂となると江戸へ随伴し、御庭番として仕えたと伝えられる。元治元年には家茂の命により神戸海軍操練所に関わり、勝海舟や坂本龍馬らとも接点を持ったという。

操練所閉鎖後は幕府の正式な役目を離れ、浪士となったとされ、各地を渡り歩き、幕末期のさまざまな人物や出来事に関わったと言われるが、後年の足取りを示す記録は少ない。

関口いろは

生年

文政〜天保頃

没年

不詳

出身

紀州藩

経歴

紀州藩薬込方御用、江戸幕府御庭番、浪士

主君

徳川家茂(紀州藩時代は徳川慶福)

関係人物

勝海舟、坂本龍馬、天璋院篤姫ほか

区分

作品内限定人物

生涯

生い立ち

関口いろはは、文政末年から天保初年頃、紀州藩士・関口斉之進の子として生まれたとされる。斉之進は、城内の警備や内命による探索、情報収集などに携わる薬込方御用を務めた人物と伝えられる。

幼少期よりいろはも、藩儒のもとで手習いを受け、書を嗜んだほか、居合・柔術道場に通い、武芸にも秀でたとされる。こうした書と武芸の素養を身につけ、16歳頃からはいろは自身も薬込方御用を務めたとされる。

のちに徳川慶福が紀州藩主となると、いろはは慶福と年齢が近かったこともあり、藩主の薬込方御用として関わるようになったとされる。

江戸幕府へ

紀州藩時代、いろはは父・関口斉之進を斬る一件を起こしたとされる。 

家茂はこの一件の経緯を承知していたとされ、後年のいろはの登用にも影響したと伝えられる。

徳川慶福が将軍継嗣となり、のちに第十四代将軍・徳川家茂となると、いろはは家茂の指名により江戸へ随伴したとされる。 いろは自身も薬込方の御用に携わり、武芸と書に通じていた。そうした資質に加え、父・関口斉之進をめぐる一件の経緯も、家茂がいろはを選ぶ判断に関わったと伝えられる。

紀州藩で薬込方の御用に携わっていたいろはは、江戸では御庭番として家茂に仕えたとされる。 後世の伝承では、将軍周辺の取次ぎ、警護、探索に類する働きを担った人物として語られている。

神戸海軍操練所にて

元治元年、幕府が神戸海軍操練所を設けると、いろはは徳川家茂の命を受け、同所に関わったとされる。
御庭番として、幕府外の人物が多く集まる同所の様子を探る役目を帯びていたとも伝えられる。

神戸海軍操練所は、幕臣だけでなく、諸藩出身者や浪士も出入りする場であった。 そのため、いろはにとっては、幕府内の秩序とは異なる人々や考え方に触れる契機になったとされる。 操練所での具体的な活動は伝承ごとの差があり、後世に伝わる内容も一様ではない。

紀州藩で薬込方の御用に携わっていたいろはは、江戸では御庭番として家茂に仕えたとされる。 後世の伝承では、将軍周辺の取次ぎ、警護、探索に類する働きを担った人物として語られている。

浪士時代

神戸海軍操練所の閉鎖後、いろはは幕府の正式な役目を離れ、浪士となったとされる。

浪士となった後の記録は断片的で、いくつかの地域を転々としたとされる。
伝承では、坂本龍馬をはじめとする勤王の志士たちと行動を共にしたともいわれる。

坂本龍馬が暗殺された慶応三年十一月の近江屋事件以後、その足取りはほぼ途絶えている。

人物

いろはは、武芸と書に通じた文武両道の人物であったとされる。居合・柔術に通じ、薬込方御用や御庭番としての経験を持ったことから、武術だけでなく、観察、探索、秘匿に長けていた人物として語られることが多い。

一方で、同時代の記録は少なく、その人物像には伝承による部分が多い。後世には、幕府に仕えながら坂本龍馬ら勤王の志士とも関わった人物として扱われ、幕府方・倒幕方のいずれにも完全には属さない存在として描かれることがある。

性格については、寡黙で感情を表に出さない人物であったとする伝承が残されている。

逸話

  • 紀州藩時代、父・関口斉之進を斬った一件が伝えられる。この事件はいろはの不殺の誓いに関わる出来事であったともされるが、詳細は明らかではない。
  • 徳川家茂から金平糖を一粒与えられたという逸話がある。後世には、いろはと家茂の近さを示す伝承の一つとして語られる。

関連項目

AOPEDIA / あおはるだん百科事典

生涯