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あおはるだん

「寛永寺」と「増上寺」

この項目では、江戸の徳川将軍家の菩提寺である寛永寺と増上寺について説明しています。音楽ユニットについては「修二と彰(曖昧さ回避)」をご覧ください。

この記事の内容には、作品内限定の設定が含まれています。 史実との相違を指摘されても修正はしません。m(_ _)m
寛永寺

所在地

江戸・上野

山号

東叡山

宗派

天台宗

創建

寛永2年(1625年)

葬られた将軍

家綱・綱吉

吉宗・家治・家斉

十三代 徳川家定

増上寺

所在地

江戸・芝

山号

三縁山

宗派

浄土宗

創建

明徳4年(1393年)。芝への移転は慶長3年(1598年)

葬られた将軍

秀忠・家宣

家継・家重・家慶

十四代徳川家茂

寛永寺(かんえいじ)と増上寺(ぞうじょうじ)は、江戸において徳川将軍家の菩提寺として重んじられた寺院。上野の寛永寺は天台宗、芝の増上寺は浄土宗に属し、宗派も成立の経緯も異なるが、ともに将軍家の葬送や供養を担い、江戸時代を通じて徳川家と深い関係を持った。寛永寺には六人、増上寺にも六人の徳川将軍が葬られており、歴代十五代のうち十二人の墓所が両寺に置かれている。

江戸城の北東に位置する寛永寺は、幕府の安泰と万民の平安を祈願する寺院として上野の山に創建され、のちに将軍家の菩提寺を兼ねるようになった。一方、江戸城の南西に位置する増上寺は、徳川家康の江戸入府後早くから徳川家の菩提寺に定められた。江戸時代にはいずれも現在の境内からは想像しにくいほど広大な寺域を持ち、多数の堂宇や子院、僧侶たちの生活空間を抱える大規模な寺院群を形成していた。

『傲慢』の舞台となる寛永寺には、天璋院篤姫の夫である第十三代将軍・徳川家定が葬られ、篤姫自身も後に同地へ葬られている。増上寺には、関口いろはがかつて仕えた第十四代将軍・徳川家茂の墓所がある。『傲慢』では、寛永寺が物語の現在地となり、増上寺は家茂の墓前へ向かおうとするいろはの目的地として関わっている。

寛永寺

寛永寺(かんえいじ)は、寛永2年(1625年)、天海によって江戸・上野に創建された天台宗の寺院。
山号は東叡山(とうえいざん)。

徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門にあたる上野の台地に建立された。

天海は京都の比叡山延暦寺にならい、上野の山そのものを大きな宗教空間として整えていった。「東叡山」の名も「東の比叡山」を意味する。創建当初は徳川家の祈祷寺であったが、延宝8年(1680年)に第四代将軍・徳川家綱が葬られたことを契機に、芝の増上寺と並ぶ徳川将軍家の菩提寺を兼ねるようになった。また、江戸時代には皇族が代々貫主を務める輪王寺宮が置かれ、幕府だけでなく朝廷とも深い関係を持つ大寺院となった。

江戸時代の寛永寺は、現在の一つの寺院から想像される姿とは大きく異なる。最盛期の境内は約三十万五千坪に及び、現在の上野公園を中心に、上野動物園や上野駅を含む上野の山一帯がその寺域に含まれていた。

その広大な土地に一つの巨大な寺が建っていたのではない。現在の上野公園大噴水付近には巨大な根本中堂、東京国立博物館の場所には本坊が置かれ、その周囲には清水観音堂、不忍池辯天堂、五重塔、大仏殿、徳川将軍家の霊廟などが建ち並んでいた。さらに各大名の寄進による三十六坊の子院が上野の山各所に置かれ、それぞれが寛永寺を構成する寺院として役割を担っていた。

当時の「寛永寺」は、本堂と境内だけを指す現在一般的な寺院の姿とは異なり、本坊や大伽藍、大小の子院、霊廟などが広い山内に点在する巨大な寺院群であった。その規模と構成は、一つの寺というより、寺院を中心として上野の山に形成された一つの町を思わせるものであった。『傲慢』は、この広大な寛永寺の一角にある子院の一室を舞台としている。

寛永寺には第十三代将軍・徳川家定の墓所がある。家定の正室であった天璋院篤姫も、明治16年(1883年)の死後、家定の墓所の隣に葬られた。

増上寺

増上寺(ぞうじょうじ)は、江戸・芝にある浄土宗の大本山。山号は三縁山(さんえんざん)。明徳4年(1393年)に創建され、徳川家康が江戸へ入った天正18年(1590年)に徳川家の菩提寺となった。慶長3年(1598年)、江戸城の拡張に伴って現在の芝へ移転した。

現在地は江戸城の南西、裏鬼門にあたる位置にあり、北東の鬼門を守る上野の寛永寺と対をなすように、江戸城を守護する寺院として位置づけられた。寛永寺が幕府の安泰を祈願する寺として後から建立されたのに対し、増上寺は家康の江戸入府直後から徳川家の菩提寺として関係を深めている。

江戸時代の増上寺は、現在の境内から想像される一つの寺院をはるかに超える規模を持っていた。17世紀中頃には広大な寺域に百二十を超える堂宇、百軒を超える学寮が建ち、三千人以上の学僧が暮らしながら仏教を学んでいた。周囲には多数の子院も置かれ、将軍家の法要を担う寺院であると同時に、多くの僧侶が生活し、学ぶ巨大な宗教・教育の拠点でもあった。

したがって当時の増上寺も、大殿や将軍家霊廟だけから成る一つの寺ではなく、大小の堂宇、学寮、子院、僧侶たちの生活空間が集積した巨大な寺院群であった。その規模は、一つの寺というより、芝に形成された一つの町を思わせるものであった。

『傲慢』で関口いろはが向かおうとしている第十四代将軍・徳川家茂の墓所は、この増上寺にある。

徳川将軍家の墓所

江戸幕府十五代の将軍のうち、十二人が寛永寺または増上寺に葬られている。寛永寺には六人、増上寺にも六人の将軍の墓所があり、両寺は徳川将軍家の主要な墓所となった。

寛永寺

第四代 徳川家綱

第五代 徳川綱吉

第八代 徳川吉宗

第十代 徳川家治

第十一代 徳川家斉

第十三代 徳川家定

 

増上寺

第二代 徳川秀忠

第六代 徳川家宣

第七代 徳川家継

第九代 徳川家重

第十二代 徳川家慶

第十四代 徳川家茂

 

すべての徳川将軍が両寺に葬られているわけではない。初代・徳川家康は日光東照宮、第三代・徳川家光は日光山輪王寺大猷院、第十五代・徳川慶喜は谷中霊園に墓所がある。

幕末の寛永寺と増上寺

幕末に至っても、寛永寺と増上寺は徳川将軍家の菩提寺として重要な役割を担い続けた。しかし幕府の終焉が近づくにつれ、とりわけ寛永寺は政局そのものに深く関わる場所となっていく。

慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いの後に江戸へ戻った第十五代将軍・徳川慶喜は、江戸城を退いて上野の寛永寺に入り、朝廷に対する恭順の意を示して謹慎した。その後、旧幕臣らによって結成された彰義隊が上野に集結し、寛永寺一帯を拠点とするようになる。

同年5月15日(1868年7月4日)、新政府軍と彰義隊との間で上野戦争が起こり、寛永寺一帯は戦場となった。戦火によって根本中堂をはじめ多くの堂宇や子院が焼失し、江戸時代を通じて上野の山に築かれてきた広大な寺院群は大きく姿を変えることとなった。

一方の増上寺は、幕末の戦闘の直接の舞台とはならず、徳川将軍家の菩提寺として歴代将軍の墓所と祭祀を守り続けた。幕府の終焉によって両寺を取り巻く政治的環境は大きく変化したが、徳川家との関係は明治以降も続いていった。

関連項目

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